LAPIS lazuli

 

かつてラピスラズリは「天空を象徴する聖なる石」として神聖視されてきました。古くは新石器時代の紀元前7千年期のインダス文明とアフガニスタン間の重要な交易路の遺跡メヘルガルや紀元前4千年紀のメソポタミア文明北部の入植地などでもからもラピスラズリのビーズは発見されています。
その深い青色から藍色が美しく、しばしば黄鉄鉱の粒を含んで夜空の様な輝きを持つことから、古代ローマの博物学者プリニウス(Gaius Plinius Secundus)はラピスラズリを「星のきらめく天空の破片」と表現しました。
古代社会でも特に高く評価したのはエジプトで、ファラオ、王族、神官などの祭司階級しかこの石をつけられない時代もあり、黄金を凌ぐほどの価値をも与えられていました。

 

新石器時代からアフガニスタンで採掘され、地中海世界と南アジアに輸出されて、装飾品や、やがて絵具として使われるようになりました。
 ヨーロッパにおいては、絵具の原石がアフガニスタンから海路でイタリア・ヴェネツィアに運ばれて来る事からウルトラマリン(Azurrum Ultramarinum [海を越えてもたらされた青])と呼ばれるようになります。
ウルトラマリンは、ただ単にラピスラズリを粉末化しただけでは作る事の出来ない顔料です。例え含有量の多い最高級クラスの原石を用いても、やや灰色を帯び、その青の濃さには限界が生じてしまいます。
ラピスラズリをウルトラマリンの顔料にするための抽出方法について、15世紀の芸術家であるチェンニーノ・チェンニーニ(Cennino Cennini) は、その著書『芸術の書』(IL LIBRO DI ARTE)において次のように記述しています。
「粉砕した原料を溶かした蝋、樹脂、油と混ぜ合わせ、できた塊を布に包み、うすい灰汁の中でこねる。青色の粒子が容器の底に沈み、不純物や無色の結晶は塊の中に残る。この工程を3回以上繰り返す。あとから滲出してくるものほど等級は劣る。」
つまり、石を細かい砂状に砕き、解かしたワックス・油・松ヤニなどと混ぜます。できた塊をうすい灰汁の中でこねると粒子が容器の底に沈んでいき、最終的には青い粒子を含んだ透明な抽出物でようやく完成するわけです。
貴重なラピスラズリから更に純粋な天然ウルトラマリンを作り出すためには如何に多大な労力を払って捻出していたかが伝わってきます。

煌々とした青色を放つ最良の天然ウルトラマリンの抽出量は、ラピスラズリ粉末のわずか2~3%にすぎません。非常に高価な顔料であるため、芸術家たちはキリストのローブやマリアのマントなど、ごく限られた部分を彩るためのみに用いました。さらに使用量を節約する為、下塗りにアズライト(天然群青MountainsBlue)を使うなどの工夫の跡も数多く残っています。

ある色彩鑑定家は「青が深くなると人は『無限』の感覚が呼び起こされ、純粋で超自然的なものへの欲求に気づきます」と語りますが、現代になっても空の青を瓶に詰め込むことができず、炎の青にも触れることもできない人間にとって、青は神聖な色として存在し続けるのです。

滅多にお目にかかることはありませんが、どれが本物のウルトラマリンの顔料だか分かりますか?
答えは一番左が天然ウルトラマリンの最高級品、その右が次の天然グレード、その右はニュートンの人工ウルトラマリンライトです。一番右はブライス社のコバルトブルーでした。
クサカベの人工ウルトラマリンの油絵具です。

1828年、テュービンゲン大学のクリスティアン・グメリン(Christian Gmelin)によって現在の合成(人工)ウルトラマリンの製法が発表さます。顔料として高品質であり、且つ安価に生産可能な合成品の登場により、ラピスラズリから抽出する天然ウルトラマリンは、残念ながらやがて姿を消してゆくのです。

Atelier LAPISは「叡智の石」とも呼ばれているラピスラズリから、今現在の価値観を再び見直し、様々な試練や苦難を乗り越えることで、自らを成長させてゆけるようにという願いを込めて名付けています。

参考資料
Gigazine
Wikipedia
絵具屋 三吉

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ClassicalTechnique 古典技法

 現代の私たちの美への意識は遥か遠い古代ギリシア時代に遡ります。その明晰な理念は、調和を重んずる形式、理想的な人間像を重視した考えに基づいた技法と言えるでしょう。古典技法とは、時代を特定出来るものではありませんが、現在の技法と比較するとその特徴は鮮やかに見えてきます。 それぞれの時代において、各技法はその理想に向けた試行錯誤の上に、積み重ねられた経験が伝統となり、それが培われて受け継がれてきたのです。その工程は、常に手順を遵守しなければならず、終始一貫して綿密な手仕事の技によってのみ、成し得る方法だと言えるでしょう。
 
  絵画における古典技法とは、昔日の巨匠と呼ばれる画家達、すなわち13世紀から15世紀までのテンペラ画家、14世紀から17世紀までのテンペラと油を併用した画家、16世紀後半から17世紀にかけての油彩画家などが実践して行ってきた技法を指します。それぞれの時代において、この技法的な探求から表現までもが大きく変化してきました。  一方、額縁においては、当初は絵画と一体化して製作されていましたが、絵画を嵌めるものとしての機能をもつようになってからは、絵画とはそれぞれ別の道を歩むことになります。その古典技法とは13世紀から19世紀頃まで、工房毎に職人が木地を組んだ後に、膠と石膏や白亜をまぜて下地を塗っていた時代までの作り方を指します。その後の仕上げの処置に関しては、様々な素材・技法を使った、実に多様な仕上がりになってきました。絵画では既に使われなくなった古の技法も、額縁制作においては、依然として使い続けている工房もあるのです。
 

下地  Sizing and Ground

   かつて画家や額縁作家の仕事は、目止めや下地づくりから始まるのが大原則でしたが、今や画材店に行けば加工済みの商品が、代金と引き換えに、簡単に手に入る今日では下地の存在は忘れ去られています。実は作品自体の印象、質や耐久性、支持体と絵具のつきの良し悪し、絵具の発色効果も、この下地ひとつの出来栄えで大きく左右される大切な要素なのです。 絵画や額縁などの全ての作品は「支持体」「下地」「絵具層」の3つの層から出来ています。その「下地」の層には、「目止め」(sizing)と「地塗り層」(ground)が挟まっています。この層は絵具が支持体に直接に染み込むのを防ぎ、表面では絵具の「載り」を助けます。そのためには膠と石膏や白亜が欠かせなかったのです。 この層での作業は、支持体同様に、絵具層に決定的な影響を及ぼす所以に、最も重要な作業なのです。古典技法においてはこの「下地づくり」が全ての作品に共通する作業とも言えるでしょう。

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